こんにちは!はじめまして!ウワサの動画制作室のほっちと申します!
ウェブサイトなるものを作ってみました!そして記念すべき初記事!なので、まずは自己紹介がてら自分の人生について語らせていただきたいと思います。
これまでに憧れの会社に入社して1ヶ月で辞めたり独立しようとして失敗したり海外で働いたり投獄されたり独立したりフェスやったりと…
自分で言うのも何ですが、まぁめちゃくちゃな人生を歩んできていると思いますので、これを読んでくださっている希少な読者様であるあなたの人生に少しでもプラスになればと思います。
一番伝えたい事は最後の章にありますので、長くて読めない方はそちらだけでもどうぞ\(^o^)/

友人(Aome https://twitter.com/donaomep2)に描いてもらったのアイコンではこんな爽やかイケメンっぽくなってますが…

実写はこうです。(髪を切れ)
それでは、ほっち劇場、始まります。
-序章- 何やっても人並み以下の小学生時代
さて、まずは小学生時代から書いていきます。
子供の頃は兄がやってるからという安易な理由でサッカーをし、ゲームをこよなく愛す冬でも短パン系少年でした。
ただ、勉強も周りと比べると全然だめで、足も遅いし、サッカーなんて永遠補欠。
親に買ってもらったゲームで、友達よりもプレイ時間は断然長いのに、初めてやった友達にボロ負けする。そんな感じのザ・落ちこぼれといった感じの子供でした。
ただ、プライドだけは無駄に高く、上手く行かないとキレるし偉そうなので、友達はほとんど居ませんでした。今思うとめっちゃ嫌われてたんじゃないかと思いますね…。
まさに性格がジャイアンののび太です。
小学生の間はこれでもなんとか大丈夫だったのですが、中学生に入ると一変します。
-第一章- 中学生ほっち、いじめられ自殺を考える
はい、いじめを受けます
そりゃそうですよね。何もできないクセに偉そうなんですから…。
ただ当時の僕には何故いじめられているかが分からなかったのです。
勉強もスポーツもできず、学校ではいじめを受け、家では両親に怒鳴られ、自殺を考えたことも何度もあります。
部活はサッカー部に入ったのですが、完全に足を引っ張る存在で、『辞めたい』と両親に言っても辞めさせてもらえず、どうしても練習に行きたくなくて朝わざとゴミステーションの壁に頭を打ち付けた事もありました。
毎日毎日泣きながら生活をしていたので、段々と感情が無くなり、涙も出なくなりました。
-第二章- 音楽との出会い
何故か無駄に高かったプライドもズタボロにされ、友達もあまりおらず、部活をサボる方法か死ぬ方法だけを考えていた中学時代。
そんな時に僕は音楽と出会いました。
音楽を聴いている時だけは世界の全てから遮断される事ができました。
あの時BUMP OF CHICKENの車輪の唄をテレビで見なかったら、本当に自殺していたかもしれません。
そうやってなんとか毎日を耐え忍び、苦しい部活も無事引退することができ、3年生の後半はズタズタになったプライドも少しずつ良い形で再形成されていきました。
その効果か、受験勉強サボってスマブラするような良い友だちにも恵まれ、僕のメンタルは徐々に回復していきました。
高校生になり、バンドを組むようになり、生活の中心は徐々に音楽になっていきました。
-第三章- オーストラリアへ留学する
ここまでで書いてきた通り、僕は頭が良くなく、地元で一番偏差値が低い公立校に入りました。
良い大学に行かないと貧乏になると刷り込まれて育ってきた僕は思いました。
『これやばくね?』と。
今まで生きていく事に必死で勉強の事なんて考えて居なかった僕が今更危機感を感じ始めたのです。
そこで中学の頃から仲の良かった友人からオーストラリアへの二週間の短期留学へ誘われ、軽い気持ちで行きました。
そこで目にしたのが一年間の長期留学をしてペラッペラに英語を話す先輩。
なんと通ってた高校はオーストラリアに姉妹校があって、無料で留学できちゃうプログラムがあるらしい。
『これや!』思いましたね。
二年生の時にオーストラリアへ一年間留学しました。
そりゃもう大変でした。がっつりホームステイで日本語話せる人なんて居ない中一年間生活したので、一週間が一ヶ月に感じました。
ただおかげさまでとりあえず英語は話せるようになりました。
その時にできた友人とは今でも遊ぶ仲です。オーストラリアの文化に触れることで大きく価値観が変わりました。
本当に行かせてくれた両親には感謝ですし、迎えてくれたホストファミリーや友人たちにも永遠に感謝しています。
-第四章- バンド漬け
日本に帰って大学卒業までひたすらバンドしてました。
音楽の為だけに生きてました。
ただ、チームマネジメント能力が圧倒的に欠けているのかバンドも上手く行かず、組んでは解散を繰り返しました。
まぁここはそんなに語ることもなくつまらないのでこれくらいで。(音楽好きな方メッセージください)
-第五章- 憧れの楽器の会社に就職!からの迷走。
楽器のネット販売で日本最大の会社に就職し、必死で1ヶ月働き、頑張りを認められ、社長の隣で仕事をするようになりました。
ただ、内部があまりにも腐っていて、パワハラに次ぐパワハラ。毎日ぶっ殺すぞって言われて、メンタルの弱い僕は辞めてしまいます。
そして実家へ帰り、アフィリエイトを始めます。
ある程度生活できるようになった所で、ななんちゃと1ヶ月東南アジアへバックパッカーの旅へ出たりしました。
そうするとまた音楽に携わりたい欲が出て、バンド活動の傍らリアル店舗の楽器店でも働くようになりました。
その傍らYoutuberとしても活動し、3ヶ月で2000人のチャンネル登録を獲得。
何がやりたいのか自分でも分からず本当に迷走していました…。
-第六章- IBMマレーシアへ就職
バンドもYoutubeも辞めて、IBMマレーシアで働くことになりました。
そのタイミングで嫁(ななんちゃ)と結婚しました。この時23歳とかだった気がします。
マレーシアは御存知の通りめちゃくちゃ物価が安くて、過ごしやすいです。僕らは約3万円の家賃でプール、ジム、フロント、警備員が24時間居るマンションに住んでいました。仕事も楽でしたし、僕はバーでバンド演奏もして居て、幸せでした。
そんな時、IBMのライバルであるhpからオファーが来ました。
IBMの給料より20%近く上がる上に、福利厚生はhp wayと言われるだけあって充実も充実。社内が街みたいで、カフェテリアはもちろん、病院まであります。
僕は二つ返事でOKしました。
しかし、マレーシア内で転職するにはビザを更新する必要があるため、一旦マレーシア国外へ出る必要がありました。
僕と嫁は一旦タイへ出国し、タイの友人に会ったりして数日を過ごしたあと、マレーシアへ帰りました。
そこで人生最大の問題が起こりました。
-第七章- 牢獄へ収監、そして強制送還
まさかの、入国拒否されました。
全く理解できず、めちゃくちゃ説明しましたが、相手の言ってることも『お前はルールを破っている』のような意味の分からない事ばかり。
そして嫁とは別にされ、ガチものの牢獄へ入れられました。そこは薄暗い20畳くらいの部屋で30人くらい英語すら話せないような人たちがたくさん居ました。
みんな食事が入っていたダンボールを敷いてその上に寝ていて、トイレもむき出し。
いつ出られるかも分からない。何故入れられたかも分からない。
ただ悔しくて、情けなくて、今度は1分が1時間くらいに感じました。
そこに居た少しだけ英語がはなせるインドネシア人が『そこのガーナ人の人は90日も居る』と教えてくれました。この中で90日…絶望でしかありませんでした。
ただ日本人は世界で一番強いパスポートを持っています。
約30時間後、僕たちは牢獄を出て、タイへ返されました。
そして日本へ強制送還。
hpは本当に謝ってくれて、いろいろともう一度マレーシアで働くように何度も何度も電話をくれたのですが、嫁のメンタルがやられすぎて僕に残された選択は
・離婚してマレーシアへ戻る
・そのまま日本で1からやり直す
のどちらかでした。
僕は嫁と日本に残る事を選択しました。
-追記-
ちなみに後からhpの方がマレーシアの税関に聞いてくれたのですが、強制送還の理由は態度が悪かったからだそうです。
-第八章- 英語教室の経営を始める
日本に帰ったら母親の友人の子供が英語を教えて欲しいと言われたそうで、まずは2人。
自宅で英語を教え始めました。
そこから口コミでどんどん広がり、気がつけば本当にたくさんの生徒さんが来てくれるようになりました。
資金的にも余裕ができて、仮想通貨投資も始めました。
バブルの少し前、2017年春くらいでしょうか。
『みかん』という名前でブログを始めて、Twitterでいろいろなインフルエンサーの方々とつながり、人脈に恵まれ、バズが起きます。
この影響で凄い時は毎日100人以上フォロワーが増えていました。
そのまま仮想通貨関連の仕事をさせていただいたりもしましたし、今でも動画や楽曲制作でお仕事を頂いたりしています。
投資について勉強できたのは人生において本当に良かったと思います。
人生とは時間という資産をどう投資するかで決まります。
僕は始めの企業を1ヶ月で損切りすることができたのは本当にナイストレードでした。
今は大半の時間を動画編集に投資しています。
十分なリターンが得られるからはもちろん、やっていて楽しいのも大切な事だと思います。
みなさんの時間は何に投資されていますか?
-第九章- フェスを主催する
バンドがどうしても上手く行かないので、『まろ』という名前で一人で制作を始めます。
ボーカロイドを使って曲を作り、楽曲制作を一人である程度のクオリティでできるようになり、お仕事としても案件をいくつかいただくようになりました。
そうした時に、大学時代からの友人とフェスを主催する話になります。
この話は本当に長くなるので、詳しくはこちらをご覧ください。
結果から言うと、去年、フェスを主催しました。
僕もバンドでOAとして出演させていただきました。

憧れのバンドも呼べて、本当に最高の時間でした。
-第十章- 伝説は始まった
フェスを主催して一番感じたのが、『英語教室は場所的、時間的拘束がきつい』
世界中どこに居ても仕事ができる環境にしたい。
そう強く思うようになりました。
そんな時嫁が既に始めていた動画制作に目を向けます。
何やらモーショングラフィックスとかいうものをやっているらしい。
どれどれ…。
こ、これは!!
ハイスイノナサの地下鉄の動態やないかい!!!!
僕が最も好きなMVの一つです。
これはやりたい!!
僕は早速動画制作の勉強を始めました。2019年11月くらいです。
それから様々な方の動画を拝見して、勉強し、案件もたくさん頂けるようになりました。
これからはCM案件を中心にこなしたいと考え、白川さんのオンラインサロンに参加させていただき、プロジェクトを一つ担当させていただいております。
動画を始めてから本当に毎日が楽しく、友達と遊ぶより、動画を作っていたい。
そんな生活になりました。
もっとすごい動画を作りたい。
そんな動画だけ作って世界を旅して行きていきたい。
このブログはその軌道を残すためにちょこちょこと更新していこうと考えています。
よろしければお付き合い頂けると嬉しいです。
今後ともナナンチャとほっちをよろしくおねがいします。
最後に
本当に思いついた事を思いついたままにやってきた人生ですが、そのおかげで本当に様々な分野で様々なスキルが身につきました。
バンドで上手く行かなかった事だけが本当に後悔というか、無念ですが、それ以外に悔いはなく、充実した人生だなぁと。
これからは動画のスキルを身に着けて、自分を表現して行きていきたいと心から思っていますが、今までの経験から、しっかりと考えて行動すればある程度は成功できる自信もあります。
これはいろいろなことに挑戦して失敗したり成功したりしてきたから見えるものでしょう。
留学だって周りの人は誰も行きたがらない中、意を決して挑戦したから行けたし、仕事だってみんなが辞めたいと思いながら辞めない中、損切りは早い方が良いと思い勇気を振り絞って辞めました。だからこそ今があるし、いろいろな楽しい経験ができました。IBMマレーシアだって実は誰でも行けるのに日本で死ぬほど残業する人は同僚に愚痴を垂れるだけで行動ができません。その気になれば投獄だって誰でもできます。 起業も、動画編集も、楽曲制作もフェスの主催も、仮想通貨投資も、アフィリエイトも、意を決して挑戦するだけ。それだけで前に進む事ができました。始めの一歩が何よりも難しいですが、そこを進んでしまえば後は勝手に足が出ます。
この記事を見て少しでも新しいことに挑戦しようかなと思ってくれたそこのあなた、GO!です。失敗しても大した事もありません。次はうまく行きます。マレーシアで投獄されたって立派に生きていけます。全然大丈夫です。
本当に最後に、この記事を書いて感じたことですが、本当に僕はいろんな人に支えられているからこそ無茶苦茶な生き方ができているのだと実感しました。僕に関わってくれている全ての方に心から感謝します。
コメント